【第2特集】 2006年9月号(No.006) それぞれのウォッチメイキングスタイル
それぞれのウォッチメイキングスタイル
PARMIGIANI FLEURIER
THOMAS PRESCHER
MONTBLANC
奥田高文、奥山栄一:写真/角田 潤、広田雅将:取材・文
人にひとりひとり個性があるように、時計メゾンにもさまざまなカタチがある。ここに挙げた3つのメゾンは、新興ながらも独自の「ウォッチメイキングスタイル」を持つ点で、同じセグメントの他メーカーとは一線を画する。
ミシェル・パルミジャーニ
今や高級メゾンとして広く認知されるパルミジャーニ・フルリエ。今年の年産は4000本というから、ラグジュアリーウォッチのセグメントでは、決して小規模ではなくない。しかし、彼が時計の修復を始めて30年、時計メーカーを創業して、わずか10年でしかないことを思えば、改めて驚かざるを得ない。今回、パルミジャーニのグループ各社を訪問して感じたのは、規模が大きくなったにもかかわらず、ミシェル・パルミジャーニという人物の人格と意志がどの会社でも強く感じられたという当たり前だが、かけがえのない事実であった。
「神の手を持つ時計師」の人に恵まれた半世紀
「神の手を持つ時計師」といわれるミシェル・パルミジャーニ氏だが、彼は何より人に恵まれた人物だ。彼は1950年に、フルリエの隣村であるクーベに生まれた。「少年のころ、私は同じ村出身の時計師、フェルナン・ベルトゥ(1729~1807)の銅像に魅せられた」という。さらにもうひとり、彼に影響を与えたのが、フルリエ出身のエドゥワルト・ギョーム(P.73参照)である。こんな環境に育った少年が、時計師を目指すのは当然といえる。パルミジャーニ氏はラ・ショー・ド・フォンの時計学校とニューシャテルの技術者養成学校で学び、ジュベニアに就職した。しかし2年後に退社。76年には修復工房をアパートに設けた。修理師になるという彼の覚悟を後押ししたのは、ダニエル・ジャンリシャールの末裔で、優れた時計師だったマーセル・ジャン=リシャールである。
時計の世界に導いたのがふたりの偉人、後押ししたのが友人の時計師なら、力を貸したのはコレクターである。彼に修復を依頼したコレクターの中には、スイスの大財閥、サンド家の人々がいた。パルミジャーニ氏の理念に共感した彼らは、やがてサンドファミリー財団を通じて資金などを提供。パルミジャーニ・フルリエというブランドの誕生に手を貸すことになる。彼と人との出会いは、1996年、豊かな実をもたらすことになった。
マニュファクチュール化を成し遂げた、パルミジャーニの10年
それから10年。パルミジャーニ・フルリエは工作機械メーカーやケースメーカーを買収、高級時計の新規格「カリテ・フルリエ」も発表した。ムーブメントの設計・製造を手がけるボシェは拡大し、今や文字盤の製造なども手がけている。10年前とは比較にならないほど大きくなったパルミジャーニ・フルリエ。しかし、隅々まで行き渡った完璧主義とアットホームな雰囲気は、大マニュファクチュールとはとても思えない。まるでパルミジャーニ彼自身の性格と歩みをそのまま反映させたかのようである。そのパルミジャーニ氏がモットーのひとつに掲げるのが「修復を通じて真実に到達する」である。同社は事業が拡大した今ですら、3本柱のひとつに修復を挙げる。現在3人の時計師が、かつての時計を修理していた。そのうちのひとりがヴィネガー氏である。「経験を継承して若い世代に伝えていくこと」と語る彼は、EWCムーブメントを載せたカルティエなどを修理していた。「CNC旋盤があれば部品を作れるが、ここでは手動旋盤を使い、穴開けの位置も手で決めていく」。ここで経験を積んだ時計師の一部は、同じ建物内にあるコンプリケーション部門に異動する。現在は4人で、トゥールビヨンやブガッティなどを組み立てている。
30年前、小さな時計修理工房を開いたパルミジャーニ氏の意志は、今なお若い時計師たちに受け継がれている。規模が10倍になっても変わらない思い。初心を忘れるメゾンが少なくない中、パルミジャーニ氏が30年前と同じ思いを抱き続けるのは、彼が人に恵まれたこと以上の奇跡といってよいかもしれない。
つづきは『クロノス日本版』2006年9月号(No.006)でお楽しみ下さい。
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