【第2特集】 2006年5月号(No.004) ルノー・エ・パピを巣立った時計師たち -後編-
ルノー・エ・パピを巣立った時計師たち
受け継がれる時計作りの遺伝子
奥田高文:写真/名畑政治:取材・文
今やスイス時計界に革新をもたらす最大勢力となった感のある複雑時計工房ルノー・エ・パピ。 彼らの生み出すグランソヌリが、トゥールビヨンが、時計の歴史を次々に塗り替えている。そこで我々は、この工房をかつて支えた時計師たちを訪ね、ヨーロッパへと渡った。果たして、そこで我々を待っていたのは、パピ時代に培った高度な技術と自らの独創的なアイデアを融合させ、明日の時計界を牽引する力を持ったユニークな作品を現実のものとする、逞しき時計師たちだった。

アンドレアス・ストレーラー
時計学校卒業後、すぐにルノー・エ・パピに入り、複雑時計開発に携わった早熟の時計師アンドレアス・ストレーラー。やがて彼は独立し、自分自身の名前を冠したモデルを毎年発表する。だがその後、彼は新作も発表せず、時計界の表舞台から姿を消した。それからおよそ3年の今、彼は、いったい何をしていたのだろうか?その謎を解くため、我々はスイス有数の工業都市であり、アンドレアスの住むヴィンタートゥーアの町へと向かった。
空白の5年の真実
私が最初にアンドレアス・ストレーラーに会ったのは、1999年のバーゼル・フェアだった。そのとき彼がアカデミー(独立時計師創作家協会)のメンバーとして出品したのは、プッシュボタンを押すと短針が月を、長針が日付を表示する「ツヴァイ」という懐中時計。だが正直に申し上げて、この時計はそれほど魅力的とは思えなかった。もちろんメカニズムは独創的だったが、外装デザインが未成熟で、これを販売するのは難しい、と思われた。案の定、この時計はほとんどまったく注文を受けることはなかった。ただ、その独創的なメカニズムと確かな技量は、業界にアンドレアス・ストレーラーの名を知らしめるのに十分だった。このことは翌年に実感させられるのだが、それを説明する前に、まずは彼の時計師としての足跡を紹介しよう。彼が時計に興味を持ったのは父、ワルター氏の影響だった。父の本業は自動車教習所の教官だったが、その趣味は時計修理で、自宅に小さな工房まであった。そこでアンドレアスは子供の頃から時計に囲まれて成長したという。やがて14歳になったアンドレアスは、ゾロトゥーンの時計学校に入学。そして、同校の卒業を迎えたとき「たまたま募集があったから」と、設立間もないルノー・エ・パピに入社する。「86年の設立以後、90年代の初めまでルノーさんとパピさんのふたり以外、ほとんど時計師は在籍していなかったんです。そこで彼らは人を探していて私が採用されたというわけです。
つまり、私はルノー・エ・パピの最初のチームの一員なんですよ。その後、次々に時計師が入ってきて、彼らと一緒に働きました。当時の同僚はロベール・グルーベル、ステファン・フォーシィ、ピーター・スピーク・マリン、ヴィンセント・ベラール、マルコ・フラデーリーといった人たちです。この顔ぶれからもわかるように時計師としてベストな人が集まっていましたが、国籍は多彩でした。オランダ、フィンランド、イングランド、ニュージーランド、フランスなど。彼らの多くは世界各国からウォステップ(ヌーシャテルにある時計修理専門学校)に腕を磨きに来ていたのですが、そこを経由してルノー・エ・パピに入社する例が多かったのです。そして、私が94年末に退社するときにはメンバーは15人に増えていました。
私がパピで最初に手がけたのはスモール・ミニッツリピーターで、オーデマ ピゲのために製作しました。このような複雑時計を開発するには高い技術が要求されます。でも、子供の時から父の仕事を見てきたことや、自分自身に挑戦したいことがたくさんあったので、とにかく楽しかったですね。それにパピでは新キャリバーの開発において、既存の機構を組み合わせて何か作るのではなく、新しい機構を考え、一から部品を作って時計を生み出していくことの可能性を学ぶことができました。もちろん、パピを出たからといって、誰もが自動的に有名になるわけではありません。でも、このような貴重な経験ができたからこそ、今、ひとつの誇りとして『私はそこにいた』と言えるのです」。
つづきは『クロノス日本版』2006年5月号(No.004)でお楽しみ下さい。
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